Mrs. Green Appleをクィアリーティングで読み解く: 「君を知らない」
皆さん、こんにちは!Yuです
今日は、私の最近の推し「Mrs. Green Apple」の魅力について語らせてください。
「Mrs. Green Apple」は、音楽はもちろん、メイクや衣装、歌詞に至るまで、ジェンダーに関する固定概念を超えた自由さがあって、完全に私を沼らせています。
そんな「Mrs. Green Apple」の曲や表現など全てをクィアの視点から深掘りしていきたいと思います。
今回の記事では「Mrs. Green Appleの魅力」そして、「クィアリーティングを通して「君を知らない」という曲の紹介」をしたいと思います!
Mrs. Green Appleの素敵な魅力の一端をお伝えできればと嬉しいです!
Mrs. Green Apple(ミセス)にハマったきっかけと魅力
前々から「Mrs. Green Apple」という名前のバンドが存在することはなんとなく知っていました。そんなある日、仲の良い友達と音楽の話をしていると「Mrs. Green Appleが最近変わった」という話題が出たので、興味本位で「Mrs. Green Apple」と検索してみたんです。
多分こんな検索結果だったと思うのですが・・
「か、かわいい!!!」
とても可愛いメイクをしている3人組が目に飛び込んできて、それが私の「ミセス沼」への第一歩でした。
K-popアイドルにもメイクをしてるアーティストはたくさんいますが、ミセスのメンバーが放つフェミニンなオーラがたまらなくどストライクでした。
直近だと、2023年のレコード大賞や紅白歌合戦やCDTV 年越しSPに出演した際の衣装もとっても素敵でしたね
フレアパンツが可愛い
ボーカル 大森元貴さん(以後、(愛を込めて)元貴)
かっこいいパンツ
ギター 若井滉斗さん(以後、(愛を込めて)わかい)
そして、なんといってもドレスが超絶可愛い
キーボード 藤澤涼架さん(以後、(愛を込めて)りょうちゃん)
見た目から興味を持ち始めた私ですが、Mrs. Green Appleの世界に深く入ってみると、単なる曲調の良さだけじゃなく、ジェンダーの固定概念にとらわれない自由なスタイルや表現、異性愛を前提としない歌詞など、クィア的な観点でのミセスの魅力に気づきました。
クィアリーディングとは?
まず、「クィア」という言葉自体について少し触れてみたいと思います。
クィアはもともと「奇妙な」という意味で、性的マイノリティに対しての蔑称として使われてきた歴史がありますが、現在ではLGBTQ+コミュニティによって意味が再定義されています。
現代では「クィア」という言葉は、既存の性の概念やカテゴリに収まらない、多様なアイデンティティや経験を包括する言葉として用いられます。
では、「クィアリーディング」とは何でしょうか?
クィアリーディングとは、文化やアートを性的マイノリティの視点から解釈する手法です。つまり、ジェンダーやセクシュアリティの多様性を認め、それを踏まえた上で作品を読み解くことです。異性愛であることが当然であるとされる社会、そしてその影響を受ける文化やアート作品にに対して性的マイノリティーの視点での解釈をすることで、作品に対して今まで光があまりあたってこなかった新たな意味や深みを与えることができます。
私自身、「クィアリーディング」という言葉を知ったのは、Official髭男dismの「pretender」という曲をクィアリーディングをしている、こちらのOfficial髭男dismの大ヒット曲「Pretender」を同性愛から読み解くという記事を読んだ時でした。
最初は難しい学術的な手法のことだと思っていたのですが、実は私が物心ついた時から音楽を聴くときに無意識に行っていたことだったということに気がつきました。
私は、性自認がノンバイナリー(男性・女性という枠組みにあてまらない)で、恋愛対象が女性であるため、恋愛に関する音楽を聴く時は女性を相手にイメージしますが、どんなにメロディーが気に入った曲であっても「男らしさ」や「女らしさ」が強調されている歌詞や異性愛前提の歌詞だったりすると、ゲンナリしてしまうことばかりでした。
例えば、男性が女性に対して「守る」「幸せにする」といった庇護するような歌詞や、女性が男性に向けて依存するような歌詞などは私には共感できないことが多々ありました。
そうした中で、「Pretender」のクィアリーディングは目から鱗でした。この記事を読むと、この曲がさらに切なさを増し、深い意味を持つ曲に聞こえてきます。ぜひ、ご一読ください
参考:Official髭男dismの大ヒット曲「Pretender」を同性愛から読み解く
私は、Mrs. Green Appleの曲は、異性愛者に限らず、より多くの人が共感しやすい、包括的な視点を持った歌詞が多いと感じています。正直、作詞をしている元貴が、これを意図しているのかはわかりませんが、もし自然にそうした表現が生み出されているのであれば、それは驚くべき才能の証だと思っています。
この記事で紹介するクィアリーディングは、紹介する曲がLGBTQ+の関係性を表している、と断言するものではありません。クィアリーディングは、あくまでもLGBTQ+の視点や関係性を描いている可能性を探求するアプローチです。これは、音楽が持つ意味や感情の多様性を探る一つの方法であるととも、異性愛を当然とする聞き手の中の固定概念に問いを投げ、個々の感じ方や解釈に新たな視角を提供することを目指していると思います。音楽の解釈には「正解」は存在せず、今回の私のクィアリーディングが曲の理解や感情の幅を広げる一助となれば嬉しいです!
「君を知らない」をクィアリーディングする
楽曲情報
作詞:大森元貴
作曲:大森元貴
発売日:2022/07/08
クィアな視点で歌詞を読み解いていく
私が「君を知らない」という楽曲を初めて聴いた時、泣けてしまうほど心に強く響いたのは、曲が描く深く複雑な感情の世界でした。この曲は、ただの恋愛ソングではなく、LGBTQ+の視点から見たとき、さらに深い意味を持つように感じます。
私がこの曲を聴き、一番最初に想像したのが、以下の二人の登場人物でした
“僕”:自分がゲイ/バイセクシャルである(=異性愛者ではない)ことを認め、自身のアイデンティティを受け入れ生きようとする男性
“君”:自分は異性愛者でないかもしれないが、異性愛主義の社会に圧倒され、社会に迎合するため異性愛者のふりをして生きることを選んだゲイ/バイセクシャル男性
※便宜的に”僕”と”君”を男性と置いていますが、「男性」ではなく「同性愛者/バイセクシャルの人」と置き換えて読んでいただいても問題ありません
2人はかつて互いに惹かれ合いながらも、”君”の決断により、その絆が壊れてしまった、そんなストーリーが見えました。
それでは、この2人の人物像をイメージしながら、歌詞の細かい考察をしてみましょう
分かり合える事はない そう気づいてしまったよ 分かち合うのならと泳ぐ 誰かがしてる縄跳びの中に 僕も入れたなら変われるかな
「分かり合える事はない、そう気づいてしまったよ」という冒頭の歌詞は、”僕”と”君”の間に生じた深い溝を表していると思います。ここでの”僕”は、自分のゲイとしてのアイデンティティを受け入れていますが、一方で”君”は、社会の圧力に抗えず異性愛者のふりを選ぶ決断を下した、それによりこの二人の間には溝が生じ、つながりが壊れてしまったのではないでしょうか
「誰かがしてる縄跳びの中」というフレーズは、「異性愛者であることが当たり前である社会」を表しているように感じました。自分がコントロールできる範疇の外にある「縄跳び」のリズムに合わせて飛ぶ必要があるように、自分の意思とは関係なく「異性愛者であることが当たり前である」とする社会(異性愛規範、ヘテロノーマティブといった呼び方をします)に合わせて生きることができたら自分や”君”との関係は何か違ったのだろうか、自分も適合できたのだろうか、という疑問が投げかけられているように聞こえます。それと同時に、「僕も入れたなら」というフレーズからも見えるように、「(君は『縄跳びの中に入る』という選択肢を取ったことに対し)僕は入れなかった」という対比があるように捉えられます。
君を知っている
悪いのは僕の方だ
わかった気になってた
君の一部を全部として
でも僕を知って欲しい
手を離したのは君の方だ
時間が経てば忘れる
そう思って今日も引き摺ってる
最初のサビの部分では、”僕”は”君”を理解してたと思っていたが、実際には”君”の一部しか見ていなかったことを認めています。ここでの「わかった気になってた 君の一部を全部として」というフレーズは、ゲイであることを隠すという選択肢を取った”君”の真実を完全には理解していなかった”僕”の心情を表しているかもしれません。
「でも僕を知って欲しい 手を離したのは君の方だ」という部分は、自身のセクシュアリティを受け入れ生きることを決心した”僕”のことを知る/理解してほしかったが、”君”は自身のセクシュアリティと向き合うことを選択せず、結果として”僕”と距離を取ることにした、という事実に触れているように感じます。
そして「時間が経てば忘れる そう思って今日も引き摺ってる」という歌詞から、”僕”がいまだにこの関係の終わりを受け入れることができずにいる心情を表しています。
大体そうさ、
みんな良い人でも無いし
後ろから刺されてしまうのを恐れてる
いい加減無理をするのを辞めたい
愛されていたいだけだから
それだけだから
二番の初めの歌詞は、「自分らしく生きることの難しさ」と、「愛されることへの切実な望み」のジレンマを歌っていると考えます。
「みんな良い人でも無いし 後ろから刺されてしまうのを恐れてる」という部分は、周囲から裏切られることに対する恐怖心を表現していますが、これは自分のセクシュアリティを勝手に第三者に言いふらされる「アウティング」に対する恐怖心や、社会にある同性愛差別・偏見に対する恐怖心を表現しているように見えます。
また、その直後に「いい加減無理をするのを辞めたい 愛されていたいだけだから それだけだから」という言葉が続くことにより、その恐怖心・恐れを感じざるを得ない状況ゆえに”僕”が無理をしなきゃいけないことに対する苦しさや疲れが吐露されています。「愛されていたいだけ」という一見シンプルな欲望でも「みんな(=社会や周囲の人)」の差別・偏見があるために実現できない点に、”僕”や”君”の意思とは別に社会の抑圧が大きな壁となってしまう、LGBTQ+がおかれている状況を表現しているように感じました。
君は知っている
せめて今日なら生きれる術を
辿り着けて良かったね
僕の一部を全部にして
でもこれは知っていて欲しい
夢を未だに見るんだ僕は
写真の中で息をしてる
あの頃の君に会いたい
「せめて今日なら生きれる術を辿り着けて良かったね」という歌詞は、”君”が「生きれる術」として異性愛者のふりをして生きることを選んだことを”僕”が受け止めているように見えます。
その一方、「せめて今日なら生きれる術」という表現には”僕”の視点からはその選択がベストではない、というニュアンスが含まれているように見えます。
自分のアイデンティティを押し殺しても社会の抑圧や期待に応えるための生存戦略として”君”が採った道のりに対し、”僕”も同じくゲイであることから理解を示しつつも、一見いばらの道でも自分のアイデンティティを肯定する道のりを選んだ”僕”とは違う、という風に受け取れます。
「夢を未だに見るんだ僕は 写真の中で息をしてる あの頃の君に会いたい」という部分では、「息をしているあの頃の君」= 「互いに想い合っていた(手を離す前の)君」に対して恋焦がれる”僕”の心情が描かれています。
「息をしている」という表現は「自分のセクシュアリティを隠す/隠さないという選択に迫られる前」、つまり純粋に互いに対する感情だけで関係性が成り立っていたころを指しているのではないでしょうか。
君を知っている
悪いのは僕の方だ
わかった気になってた
わかった気にさせて
でも君も知っていて欲しい
手を取っていたあの日の僕ら
時間が経てば忘れる
そう思っていても
「でも君も知っていて欲しい手を取っていたあの日の僕ら」という歌詞からは、あなたがその選択を選んだのは受け入れる、ただ、この気持ちを、あの頃の思い出を無かったことにしないでほしい、といっているよう聞こえました。
届いて欲しいこのラブソング
僕を知らない君とどうか
その日々の不可欠で在りたい
痛い 出会うまではジッと ギュッと
でももはやこれは素晴らしい
そう信じなきゃ やっていけないな
全て繰り返しで出来てる
泣けてしまうけど
悔しいけど
君を思っていたい君を知っている
ここまでの歌詞を踏まえた上で、この曲の最終部分を聞くと本当に心が締め付けられます。特にライブパフォーマンスでは、元貴の声に込められた情熱と感情が溢れ出ており、涙なしには聴いていられないです
「僕を知らない君とどうか その日々の不可欠で在りたい」という部分は、たとえ恋愛としての関係が成り立たなくても、”僕”は”君”の日常生活の中で重要な存在でありたいと願っているのでしょう。
その後に続く「でももはやこれは素晴らしい そう信じなきゃ やっていけないな」 では、”僕”と”君”の最終的には終わってしまった関係であったとしても、そのような関係性が存在したこと自体に対する美しさ・素晴らしさを信じようとすることで何とか前向きにとらえたいという”僕”の葛藤があるように感じます。
「全て繰り返しで出来てる 泣けてしまうけど 悔しいけど 」という部分は、「自身のアイデンティティを受容できるかどうか」というLGBTQ+であれば(残念ながら現在は)避けて通れない問いが今回の”僕”と”君”の関係のように、これからも起こりうるであろうことに対するやるせなさが込められているのではないでしょうか。
タイトル「君を知らない」の意味は
さて、最後にタイトルに込められた思いを分析してみたいと思います。
作中では、ずっと、「君を知っている」と歌っていて、歌詞の最後も「君を知っている」で終わっている。しかし、タイトルは「君を知らない」。結局どちらが本当の「僕」の気持ちなのでしょうか
私は以下の解釈でいつも聴いています。
曲中からの考察で伝えてきた通り、”僕”が”君”と過ごした時間が本物であり、真の”君”を知っているという確信を表しています。しかし、異性愛者としての人生を選ぶ”君”の決断を尊重するために、表面上は”君”を知らないふりをする、という複雑な心情をタイトルに反映しているのではないかと思います。
さいごに
さて、今回の記事を読んでいただいて、どう思われましたか?
先にも述べたように、この曲が同性愛について歌っているんだと、断言したいわけではありません。
元貴自身も、Youtube動画「Mrs. GREEN APPLE「ARENA SHOW “Utopia”」The Movie Commentary Part 3」で、「君を知らない」という楽曲についてこのように言っていました
いろんな解釈が生まれていいし、
そう言う自由があるからやっぱり楽曲っていうのは生きてれば、みなさんリンクする部分きっと
Mrs. GREEN APPLE「ARENA SHOW “Utopia”」The Movie Commentary Part 3
多かれ少なかれ必ずあると思うんですよ
同性愛者について歌っていないとしても、異性愛を前提としない歌詞が魅力の一つだと思います。そして、この曲が同性愛について語っていると読み解いたら、歌詞の意味がまた異なる深みを持つのではないかと思います。
皆さんもぜひ「君を知らない」に限らず、Mrs. Green Appleの他の楽曲も聴いてみてください!
ひとりでもミセスファンが増えると嬉しいです
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